思うさま蜜柑啄むメジロかな(31)
小1の娘「あのね、今日学校で習ったんだけど、ひらがなより漢字のほうが先に生まれたんだって。カタカナはひらがなより後なんだって」。そうなのだ。
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イシス編集学校輪読座「白川静を読む」、ようやくキャッチアップする。
最初に、バジラこと高橋秀元輪読師が伝える輪読のカマエが語られた。
輪読の祖、広瀬淡窓は独創的な解釈を望んだ。
誰かの真似をするのではなく、自分が独自に感じたことを重視する。
「誰かがこう言ったから、こうだと思います」ではダメ。
知識は読書の邪魔。
知識のために読むのではなく、読んでワカルことが大事。
そして、読んだ後は、読書を通じて直接感じたことを表現する。
これからの先生は、今まで誰も言ったことのないことを重視しなければならない。
読めないところは飛ばしてOK。
読み違いOK。いやむしろ「読み違い」なんてない。
著作に込められている輪郭や構造を理解することが大事である。
輪読はバジラ師 年表を読むところからはじまった。
「年表は独自のものをつくらなきゃいけないと思っている。
既存の年表は参考にしてもいいが、自分でつくるのがおもしろいんですよ」
メジロ待つ輪切り蜜柑のあたたかき(30)
ホーソーンの『緋文字』。
20年ほど前に新潮社が出した本で読んだ。今回、岩波文庫版で読んでいるが、おもしろくてページをめくる手がとまらない。
ただ、主人公の名前が「ヘスタ・プリンヌ」となっているのがちょっと違和感。姓は「プリン」のほうが個人的にしっくりくる。調べてみると原文では、Hester Prynne。その過程で、ずっと「ひもじ」だと思っていたタイトルが、ウィキペディアで「ひもんじ」と書かれていて衝撃を受ける。本をひっくり返すが、タイトルの読み方が書かれているところ、見つからなかった。
このブログを書くために、さらに『緋文字』で検索すると、岩波文庫版で新たに完訳が出ていると知る。
私の手元にあるのは、初版1929年、1955年改版、1990年67冊、310円(本体301円)
佐藤清訳である。
表紙の説明によると、新訳では序文にあたる「税関」の章が補完されているらしい。
さらに表紙を見比べて、「ホーソン」が「ホーソーン」になっていることに気づく。
ヘスタ・プリンヌ? ヘスター・プリン? 「ひもじ」?「ひもんじ」?
瑣末といえば瑣末なことだが、揺れすぎていないだろうか。
12月12日(土)の響読会では、やはりホーソンを軸にしようと思う。
早めに読み始めてよかった。
金色に染まる小さき人と鹿(29)
夕方、若草山に登る。上るにつれて光が金色を増す。一重目から奈良を見はるかすと、あわく霞み、野のあちこちから煙が立ち上っている。万葉集の歌を思い出す。よく見ると炊飯の煙ではなく、野焼きであった。長男が望遠レンズで自分が住んでいるマンションを探す。マンションから山が見えるのだから、山からも見えるはずだという。かなり時間がかかったが、見つける。
金星から地球を見たらどう見えてるんだろうと言ってた話を思い出す。
知的生命体がいるってわかるんだろうか。
帰ってからユイスマンスの『さかしま』とボードレールの『悪の華』をパラパラと読む。
フランス文学は都市を煮詰めに煮詰めきって超濃縮したもの?
バターを何時間も煮て作ったギーのようなもの?
江戸の物語文学が「遊び」と「笑い」と「劇」の極致に達したのとは別の進化を遂げたのはなぜだろう。
まだまだ知らない世界がいっぱいある。
春泥を踏みて駅舎を見あぐ朝(28)
歌仙巻き、偶然、挙句にあたる。
季節は「三春」か「晩春」。最も好きな季語は…歳時記をめくりながら「春泥」だと気づく。
春泥を「地」に、何をターゲットにし、どんなプロフィールをあらわすか。
連想をひろげるために岡潔の『春宵十話』を読み返す。
「ただちにわかる」の「ただちに」は何秒ぐらいなのか。
岡潔はこんな問いを立てる。
それをはかるために中谷宇吉郎さんと連句を試みたエピソードが出てくる。
中谷「初秋や桶に生けたる残り花」
岡「西日こぼるる取り水の音」
中谷「秋の海雲なき空に続きけり」
岡「足跡もなく白砂の朝」
付けるのに要した時間はそれぞれ十秒だったという。
それで「ただちに」は十秒であると仮留めする。
「光」である「智力」がなければ本を読んでも「ただちに」わからない。この知的センスが最近の学生に欠けているというのである。
言い替えると、「わかる」ためには自分がわかっているかわかっているかをわかるというのが第一歩なのだ。
「わかったかわからないかもはっきりわからないのに、たずねられたらうなずくといったふうな教育ばかりやってきたために違いない。教育の根本を改めてもらいたいというのはここのことでもある。」
と岡潔は書く。
剪定の枝に冬毛の猫丸し(27)
小1の長女が小学校の図書室で毎日のように本を借りてくる。
漫画の「ひみつ」をひとしきり借り終わった後、きらきらした表紙にくるまれた過去の名作本を借りてくるようになった。
『リジ―の結婚』?
ラノベ風の表紙。結婚って…早すぎるやん。一瞬目をそらしたが、思いきってじっくり見ると「プライドと偏見」と小さな字で書いてある。
ひゃー! 私が二十歳ぐらいで読んで世界文学にハマるきっかけになったジェーン・オースティンの『高慢と偏見』のリライトではないか。
長女の要約は「あのね、二人の男の人が出てくるんだけど、一人はあんまりいい人じゃなかったんだよ。それでリジ―はいいほうの人と結婚するんだ。それでめでたしめでたしっていうこと」
ほほう。要約したということは読みきったということだな。
あの長編をどうやってリライトしているのか。一時間で読みました。
それでわかった。主人公リジ―の視点だけに絞るとこうなるのか。物語稽古的にものすごく参考になる。
私がもっとも萌えた、ミスター・ダーシーが突然池に飛び込み、泳ぐところはほぼカットされ、いきなりびしょぬれになったダーシーが主人公の前にいきなり登場するというハコビになっていた。
ダーシーの葛藤ぶりを示す、ファンにとっては絶対欠かせない場面。BBCのドラマも見たけど、ドラマではけっこう長いシーンになっていた。
だいたい私の記憶では、リジーではなくリズまたはエリザベスだし、それ以前に、完全にダーシーだけに注目して読んでた自分に気づく。
ドラマのコリン・ファースがまったく期待を裏切らず、とにかくかっこよかった。ドラマの演出家は私と同じ読みであったのかもしれない。
イギリスも日本も、「母親」の言うことが変わらないことに驚いたものだった。
長いのも良い。
私の偏見では、日本でいえば『細雪』が同じおもしろさを持っていると思う。
桜の紅葉散り始めたり空青し(26)
『方法文学』(松岡正剛、千夜千冊エディション)レジメづくりのため、『ねじの回転』(ヘンリー・ジェイムズ)を読む。
19世紀の小説なのにすらすら読める。モダンに片足を突っ込んでいる?
全体にとても映像的。
終盤、主人公の女の子の表情の変化描写が凄い。
これは…映画にしたくなるだろう。