可笑しくてやがて凄し。『西南シルクロードは密林に消える』(高野秀行)
1日で一気読み。
著者は早稲田大学探検部卒業。若き日に立てた志、
「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それを
面白おかしく書く」というモットーを全うした紀行文。
盛装したカチンの女性の横顔のたたずまい。
雨上がり、静寂の村里の、鶏の赤いトサカ。
山岳地帯の軍象。
口絵写真も雄弁。
最初は笑って読んでいたが、次第に粛然とした気持ちになってくる。私には「読む」しかできることがない。
以下、印象に残ったところを引用。
・三星堆文明もしくは古蜀国は中原の民族によって滅ぼされ、文字をもたないがゆえに歴史から消え失せた。46p
・「生き死により、いい写真を撮って、期限通りに帰ることが大事」
・長い人生、誰にもほんの稀にだが「ここだけは逃げてはいけない」という場面がある
・命がかからないかぎり、決して焦らない人たちなのである。188p
・軍隊も役所や会社と同じように、部署や管轄がちがうと言って自分の枠からは決して外に出ないのである
・それで仕方なく、衣類を自給せざるをえなくなったというのである。243p
・文明とは重力のようなものだ。なんぴとたりともその強大な力にさからうことができない。244p
・活況を呈しているだけに、「遅れている」とか「辺境」という印象をまったく抱かせない。285p
・「心配するな。何も問題はない」
・村人にとって、ゲリラとは両刃の剣なのだ。324p
・彼らは社会主義者でもなんでもないが、ビルマの現政権を打倒し、独立を勝ち取ることを「革命」というのだ。
・生活に不要な知識を一般に「教養」という。472p
・成都からカルカッタまで大勢の人々の手をわずらわせてたどりついた二十一世紀の交易品「高野秀行」は、何と引き替えになったのか。みな、私を手渡しすることで何を得たのか。何も得なければ「交易品」とは呼べない。
愚考するに、それは「記憶」ではないかと思う。506p
ーー
シルクロードは道(ロード)ではなかった、「つながり」であったとエピローグにあった。
『数学であそぼ。』絹田村子
なぜか空前の数学の本ブームが到来している。
『数学であそぼ。』は、神童と言われて京都の「吉田大学」に入ったものの一日目にして数学の授業のわからなさに、2年間キャンパスに足を踏み入れることができなくなった主人公が、卒業を目指して数学の道を歩き直すというストーリー。
わからないひとほど可能性がある、ような気がする。
『まんが親』吉田戦車
20年ぶりに吉田戦車のマンガを読んでみた。
高校の時に脳天をぶち割られるほどショックを受けた。特に好きで記憶に残ってるのが、みっちゃんのママシリーズで、私の理想?のかあさん像のモデルの一部になっている。
懐かしさと妙な感慨でいっぱいになりながら読み、そのへんに置いておくと、いきなりマンガならなんでも読む小2の娘が読んでいてびっくりした。
早すぎる! で、この絵柄、大丈夫なんだ!
ザワザワしつつも止めず。
『星と伝説』野尻抱影
「+」はいつ生まれた?
『算数なるほど大図鑑』(ナツメ社)
最近、小2長女にリクエストされるまま、一緒に少しずつ読んでいる。
「+」や「ー」や「×」や「÷」はいつ生まれた?
こういうことを最初に教えて欲しかったな~と思うので、今、そうしている。
諸説あるのだろうが、この本では「足し算の記号」が生まれたのは1489年、ドイツの数学者ウィッドマンの本に出てくるのが最初とされている。ただし、その時は「et」と書かれていた。この字がくずれて「+」になった。「+」が本にでてくるのはオランダで、1514年。
古代ギリシアの数学者たちなどはどうもぜんぶ文章で考えていたようだ。
そもそも数と数字のちがいは?
数は「アタマの中」にだけあるもの。
数字は、見えない数を眼に見えるかたちに(仮に)した記号。
これが算数感覚の土台になるとおもう。
長男はこちらが好みだった。教科書はどうもあわないけど、事典はおもしろいところだけ読めるからいいらしい(^^)