春泥を踏みて駅舎を見あぐ朝(28)
歌仙巻き、偶然、挙句にあたる。
季節は「三春」か「晩春」。最も好きな季語は…歳時記をめくりながら「春泥」だと気づく。
春泥を「地」に、何をターゲットにし、どんなプロフィールをあらわすか。
連想をひろげるために岡潔の『春宵十話』を読み返す。
「ただちにわかる」の「ただちに」は何秒ぐらいなのか。
岡潔はこんな問いを立てる。
それをはかるために中谷宇吉郎さんと連句を試みたエピソードが出てくる。
中谷「初秋や桶に生けたる残り花」
岡「西日こぼるる取り水の音」
中谷「秋の海雲なき空に続きけり」
岡「足跡もなく白砂の朝」
付けるのに要した時間はそれぞれ十秒だったという。
それで「ただちに」は十秒であると仮留めする。
「光」である「智力」がなければ本を読んでも「ただちに」わからない。この知的センスが最近の学生に欠けているというのである。
言い替えると、「わかる」ためには自分がわかっているかわかっているかをわかるというのが第一歩なのだ。
「わかったかわからないかもはっきりわからないのに、たずねられたらうなずくといったふうな教育ばかりやってきたために違いない。教育の根本を改めてもらいたいというのはここのことでもある。」
と岡潔は書く。