十三夜目指して太るお月さま/多読記(18)
夜の散歩に行きたいと長女(7才)が駄々をこねるので、明日の用意が何もできていないのに夜、マンションの5階共用部まであがる。
寒い。大人は寒い。けれど、凛とした、冴え冴えとした月は見に上がった価値があった。
575つくってみなさいな、とお題を出す。(長女は『プレバト』好き。)
「お月さま 照らしているよ 太陽が」。
おっ、理科だ。
「お月さま お星さま食べて ダイエット」という句も作る。
お星さま食べたら太るんちゃう?と言ってしまったが、よく考えると
お星さまを食べてダイエットと言うのがおもしろい。
飲んで痩せるサプリみたいだ。
長男が小さい時によく読んでいた絵本。
幸福な火傷むかごの天ぷらや/多読記(17)
敦賀での仕事の後、京都駅でご飯を食べる。
長男が早く帰る必要はないから、どこかでゆっくりご飯をたべてきたらと言ってくれたのである。
10分迷って、伊勢丹11階で憧れのカウンター天ぷら。
私は一人だったけど、周りのお客さん(だいたい大人のカップル)は大いに食べ、ワインを傾け、語らっている。大将ともなじみらしい。
久しく見失っていた「幸福の形」を目の当たりにする。
それにしても口の中を火傷せずに天ぷらを食べられるようになるのはいつだろう。
食後、駅の大階段を降りることにする。
足元がうすぼんやり青く光っていて、転げ落ちそうになる。
下まで降りてびっくり。
ハロウィン仕様になっていた。
「うちら、めっちゃ写真のじゃまになってたやん」と隣の女の子たちが話していたが、まさに私もそうであった。
この猫はそろそろ冬毛秋の暮れ/多読記(16)
たいてい一眼レフを持って出る長男。
いい猫が撮れたと相好を崩す。
日曜日の夕方、鍋材料を買いに出る。風が冷たい。
この散歩の後、体調を崩す。月齢1.7の月が見たかったがかなわず。
微熱のふとんで読んだ書評本。全ページ、苛烈猛烈。
ロシア語同時通訳者だった米原万里さんも猫が好きだったようだ。
『終生ヒトのオスは飼わず』というエッセイも書いている。
ううむ、一度聞くと忘れられないタイトル。
こんなにきっぱりしなくてもいい。いやでも、きっぱりしてもいい。
梅干の種流しに数多風邪っぴき/多読記(15)
風邪をひいた。
パソコンに向かうのは辛いが、風邪をひいても紙の本は読める。
今日の一冊は磯田道史さんの『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』。
長男が大きくなってきて、このあたりの本がかなり読みやすくなってきた。
読みながらおもしろいと思ったところを好きにしゃべるのである。
「この加賀藩の人、新政府にヘッドハンティングされたんだって」
「新政府に仕官できたから年収が3600万、そうでなかったら年収150万だって」
おもしろいとおもってくれそうなポイントを選ぶのもポイントであるが、アウトプットを挟みながら読むと、最後まで到達しやすくなるし、本の記憶が普通に読むよりもずっと強く刻印される。
多読ジムに入ってから、ずっと読もうと思っていた本をどんどんやっつけている。
これはもうタイトルの5倍おもしろかった。
江戸から明治、移行期のお話だったのか。
映画も見よう。
ゆつくりと病める幸せ秋の空/多読記(14)
風邪をひく。
去年しこんだかりんシロップをお湯で割って痛む喉をあたためる。
こんな日は少年少女向けの空想科学小説だ。
育種家でもある藤田雅矢さんのSF『クサヨミ』。
中学生のときだけ発現する、植物の記憶を読める能力がモチーフになっている。
植物に動かされているかもしれない私たち。
地球は人の惑星になるずっと前に、植物の惑星で、虫の惑星であったということを微熱の身体で思う。
里芋の葉に一つぶの水の玉/多読記(13)
サトイモの葉に昨晩の雨が残っていた。
ほとんど球体の、まさに水玉。
水は無重力では球になるということを連想する。
イギリスのアート・カレッジの学生の卒業制作のドキュメンタリー、『ゼロからトースターを作ってみた結果』、なんとなく一気読みせず、長男にムリヤリ語りながら何度かに分けて読んでいる。
やっぱり、おもしろい遊びにはおもしろくかつ筋の通ったルールが必須だというのが今日の気づきである。
著者は、第二弾として、ヤギになりきってみたという本も書いている。
『人間をお休みしてヤギになってみた結果』。私は先にこちらで知った。
たまに出家願望がわき起こるわたしにとってはかなり響いた。
憂き世へのカジュアルな嘆きから入っているのもよい。
秋冷の一日物語に遊ぶ/多読記(12)
急な冷え込み。
子ども達も朝から寒い寒い、パジャマを冬用に変えなきゃという。
娘は外に出るのはやめて、アマゾンプライムでレゴフレンズをえんえんと見ている。
その横で本を読んでいた。
・・
先週、「自分ってだめだなあ」と思うことがあった。
ふと、タイトルが長すぎるので放置していた『自分がバカかもしれないと思ったときに読む本』が目に留まる。著者はサイエンスライターの竹内薫さん。
「どの子どもももともと持っている者はほとんど変わらない。
つまりバカはいない。バカは環境によってつくられるのだ。」
読み始めると、めちゃくちゃ引き込まれた。私が言いたいけどまだ言葉になってなかったことが書いてある本だった。
竹内さんが家庭教師をしていた時に、教えていた子の偏差値が20ぐらい上がった。けど先生や親の「この子はバカで」という考えが変わらなかったことが、今でも悔やまれる残念な結果につながったという。
わかる!
私は自分の子どもはダメだと思ったことはない。
ここはまだ不足してるけど、こうしたら変わる。
伝え方や伝えるタイミングを変えたらぜったいにわかるはず。わかれば変わる。
確信している。
才能は有る無しではなく、方法によって拓かれるものだ。
ものすごく個性の強い長男を育てるうえで、この考えにずいぶん、助けられてきたと思う。
ここまで書いて、関西人故どうしても「バカ」という言葉に違和感があるのだが(関西ではあかん子、今風に言えば「残念な〇〇」)、それを押して書けばバカにならないためには、何より重要なのがフィードバックを受ける環境、そして大人になってもフィードバックを受け入れる余地を持てるようになっていることが大事なのである。
長男(12)のホームエデュケーション6年目になるが、テストや通知表を使えない学校外での育ちでもっともむずかしいのがフィードバックをどう挟んでいくかということだった。
基本は、子どものアウトプットに対する私自身の見方をイキイキさせること。なにかおもしろいことをしたときに、ただ「すごいね」と言わずにほんの少し「次」を意識した言葉に言い換えて伝える。「あかんこと」をした時の言葉も同じくである。
ほかにも雑誌に投稿したり、子どもどうしの自由な研究を発表の場を作ったり、思いつくことはなんでも、あれこれ試してきた。人と接するのが苦手でも、成果を間におく関係は、長男によって心地よく感じるようで、今では欠かせないものになっている。
テストはともかく学校の通知表の評価は上からのマニュアルに従ったものにすぎないということがだんだんわかってきたので、今は離れてよかったなという気持ちも強い。
竹内さんは、2度「学年ビリ」になったことがあるという。その時に一度「バカ」の烙印を押されると抜け出すのが大変だということが骨身にしみたらしい。父親の海外赴任についていったことがきっかけだったが、周りはそんなこと忖度しない。
6年生では漢字が書けなくて通知表は1、バカ扱いだったけど、中学校になって英語が始まるといきなり優等生扱いされるというのも経験する。
もうひとつツボにはまったのが「ミもフタもないけど、いい学校とそうでない学校がある」という章。
いい学校=偏差値が高い学校ではない。
「生徒ひとりひとりを一人前の大人として扱っている」のがいい学校である。
そういう場は人間を序列化しない=バカをつくらない。
そういう場に属すことが人生の一つの起点になりうると竹内さんは書きます。
どんな子も、ぜったいに「バカ」ではない。ほんとに同感!