秋冷の一日物語に遊ぶ/多読記(12)
急な冷え込み。
子ども達も朝から寒い寒い、パジャマを冬用に変えなきゃという。
娘は外に出るのはやめて、アマゾンプライムでレゴフレンズをえんえんと見ている。
その横で本を読んでいた。
・・
先週、「自分ってだめだなあ」と思うことがあった。
ふと、タイトルが長すぎるので放置していた『自分がバカかもしれないと思ったときに読む本』が目に留まる。著者はサイエンスライターの竹内薫さん。
「どの子どもももともと持っている者はほとんど変わらない。
つまりバカはいない。バカは環境によってつくられるのだ。」
読み始めると、めちゃくちゃ引き込まれた。私が言いたいけどまだ言葉になってなかったことが書いてある本だった。
竹内さんが家庭教師をしていた時に、教えていた子の偏差値が20ぐらい上がった。けど先生や親の「この子はバカで」という考えが変わらなかったことが、今でも悔やまれる残念な結果につながったという。
わかる!
私は自分の子どもはダメだと思ったことはない。
ここはまだ不足してるけど、こうしたら変わる。
伝え方や伝えるタイミングを変えたらぜったいにわかるはず。わかれば変わる。
確信している。
才能は有る無しではなく、方法によって拓かれるものだ。
ものすごく個性の強い長男を育てるうえで、この考えにずいぶん、助けられてきたと思う。
ここまで書いて、関西人故どうしても「バカ」という言葉に違和感があるのだが(関西ではあかん子、今風に言えば「残念な〇〇」)、それを押して書けばバカにならないためには、何より重要なのがフィードバックを受ける環境、そして大人になってもフィードバックを受け入れる余地を持てるようになっていることが大事なのである。
長男(12)のホームエデュケーション6年目になるが、テストや通知表を使えない学校外での育ちでもっともむずかしいのがフィードバックをどう挟んでいくかということだった。
基本は、子どものアウトプットに対する私自身の見方をイキイキさせること。なにかおもしろいことをしたときに、ただ「すごいね」と言わずにほんの少し「次」を意識した言葉に言い換えて伝える。「あかんこと」をした時の言葉も同じくである。
ほかにも雑誌に投稿したり、子どもどうしの自由な研究を発表の場を作ったり、思いつくことはなんでも、あれこれ試してきた。人と接するのが苦手でも、成果を間におく関係は、長男によって心地よく感じるようで、今では欠かせないものになっている。
テストはともかく学校の通知表の評価は上からのマニュアルに従ったものにすぎないということがだんだんわかってきたので、今は離れてよかったなという気持ちも強い。
竹内さんは、2度「学年ビリ」になったことがあるという。その時に一度「バカ」の烙印を押されると抜け出すのが大変だということが骨身にしみたらしい。父親の海外赴任についていったことがきっかけだったが、周りはそんなこと忖度しない。
6年生では漢字が書けなくて通知表は1、バカ扱いだったけど、中学校になって英語が始まるといきなり優等生扱いされるというのも経験する。
もうひとつツボにはまったのが「ミもフタもないけど、いい学校とそうでない学校がある」という章。
いい学校=偏差値が高い学校ではない。
「生徒ひとりひとりを一人前の大人として扱っている」のがいい学校である。
そういう場は人間を序列化しない=バカをつくらない。
そういう場に属すことが人生の一つの起点になりうると竹内さんは書きます。
どんな子も、ぜったいに「バカ」ではない。ほんとに同感!